PWPの終わりはMTG1.0の終わり、ここからはMTG2.0となります。
MTG1.0を忘れないよう、戦歴を見ながら昔を懐かしんでいきます。
非常に長いし自分語りが多い歴史書みたいなもので、そこまで面白いものでもないので、暇人以外は読まない方がいいかも。
MTGを始めたのは2000年の夏。
受験勉強で頭がおかしくなったのか、ストレス解消のためか、そんな時期にMTGを始めてしまう(感染源は弟)。元々各種TCGをやっていたため、多少ルールの難しいMTGにもすんなり入ることができてしまった。
弟が黒単傭兵を使っていたため、余っていたコモン類で緑青を組むが、話にならないくらい弱いデッキでした。
マイフィニッシャーは《ラッシュウッドの精霊/Rushwood Elemental》!
2色デッキでダメラン無しでクインテットシンボルってヤバすぎるな・・・
当時はウルザ+マスクスブロック+6版の環境でしたが、ウルザブロックが軒並みテンポで売り切れていたため、マスクスブロックのみの紙束ができあがっていました。
そんな中《ラノワールのエルフ/Llanowar Elves》という1マナのタイムワープに惹かれ、《極楽鳥/Birds of Paradise》を必死にヤフオクで揃え、ステロイドに、そしてインベイジョン発売からFiresへと使用デッキは進化していきます。
2001/4/22
JP Regionals 00-01 - Koshin’etsu松本商工会議所 (3-5-1)
初の公式戦、そのころ《ウルザの激怒/Urza’s Rage》と《リシャーダの港/Rishadan Port》を持っていない自分は、メインに4枚の《エラダムリーの呼び声/Eladamri’s Call》を搭載したシルバーバレットFiresへと謎の進化(?)を遂げていました。
バレットは《煽動するものリース/Rith, the Awakener》、《嵐景学院の戦闘魔道士/Stormscape Battlemage》、《雷景学院の戦闘魔道士/Thunderscape Battlemage》、《シヴのワーム/Shivan Wurm》など、余りしっかりした構築ではなかったと思います。
ただウルザのフローレスブラックに憧れていた自分にとって、シルバーバレット戦術は余りにも魅力的でマイデッキとしては上出来だったと思います。
大学に入ってからは複数のサークルにも入り、MTG仲間も増え、大学内の仲間内でMTGをする機会も増えた。この頃は純粋に勝ちたい気持ちが強く、当時長野の権威でもあった長野杯への出場を目標とするようになりました。
このころは赤緑系のビートダウンデッキを好み、オデッセイブロックの頃には完全にビートダウンの人というのが定着しました。
このころは懐かしのサンクタムカップや830杯、鉄人杯、ちゃばこ杯など、ローカル大会はあれば全部参加してました。
2002-04-13
2002 Japan Regionals--Koushin’etsu (Matsumoto) (6-3)
大学2年目からは松本から長野に移動しており、高校生選手権に出る子の世話をしたり、それなりの戦績は残せるようになります。
この日本選手権予選では6戦目でYTSA氏に負けるまでは日本選手権本戦の権利が見えていたりもしました。
使用デッキは《野生の雑種犬/Wild Mongrel》や《獣群の呼び声/Call of the Herd》を擁する赤緑ステロイドです。
当時は4-2より上の成績を残せない事に非常に不満を持っていたけど、今考えるとプレイは非常に稚拙で、勝ちたい気持ちだけが先行していましたね。
しかし長野ではそんな感じでもそこそこ勝ててしまっていて、偶に開かれるGPTやPTQでは、地方遠征する関東勢を如何に迎撃するかが生きがいでした。
当時地方まで来てたのはフジケンさんとか樽さんとかが良く来てた記憶です。
2002-11-16
PTQ Chicago - Tokyo(スイス 5-1-1、SE 0-1) ベスト8
DCIセンターに遠征して出たリミテッドPTQで何とベスト8に抜けてしまう。
が、そこで待っていたのは何とロチェスタードラフト(オンスロート)。
田舎ではそんな文化がある訳もなくベスト8止まりでした。
2003-08-10
Nagano Cup(構築 3-1-2 ドラフト 3-0)
念願だった長野杯に初参加、しかし2分けしてしまい構築時点で目無しに。
この辺でスロープレー常連の烙印を押されてしまう。この頃はゴブリン召集を使ってたんじゃないかな。
理由は単純な練習不足で、練習不足なのに深読みしてしまい時間だけ食ってしまうというもの。プレイの遅さを解消するまで随分時間がかかりました。
でも《ゴブリンの女看守/Goblin Matron》と《頭蓋骨絞め/Skullclamp》の関係で選択肢が死ぬほどあったのも覚えています。
2004-02-28
305 PTSE Kobe - Beef Open Premium Standard(スイス 5-1-1 SE 0-1) ベスト8
伝説の神戸牛争奪戦。PT2日目ののサイドイベントだったため、不幸にもスイス最終戦でGary Wiseと激突してしまう。
なんやかんやあってSEに抜けるも、今度はOsyp Lebedowiczと激突してしまい負け。
デッキは《エルフの戦士/Elvish Warrior》や《腐食ナメクジ/Molder Slug》の入ったアンチ親和ステロイドでした、随分尖ってんなー。
2004-10-24
2004 Nagano ChampsOmocha bako(スイス 5-1 SE 2-0) 優勝
ひょんなところでタイトルが取れてしまいます、その名も県別選手権。
ゲームデーと名を変えましたが、県別選手権とはどうも相性が良いようで、長野で2回、東京で1回、それぞれ優勝しています。
デッキは親和で、環境序盤からこのデッキを使っていればと強く思わされた大会でした。
2005-09-11
Nagano Cup 2005(構築 2-3)
2回目の長野杯も惨敗。
デッキは《炎歩スリス/Slith Firewalker》や《火と氷の剣/Sword of Fire and Ice》の入った赤単スライ。
練習の時だけは分周りするため、kztさんのトロンにメインから《赤の防御円/Circle of Protection: Red》が入ったとかなんとか。
2006-06-04
2006 Japan Regionals--Chuubu(5-1-1)
しれっと日本選手権予選に抜け・・・られずオポ落ちで5位。7回戦終了の日本選手権予選なんてあったんだなぁ。
使用デッキはセレズニアアグロ、旧ラヴニカブロックのころで、《ロクソドンの教主/Loxodon Hierarch》という攻防一体のカードがお気に入りでした。
この頃からちょいちょいO塚さんにデッキ構築したりしていた、記録によればこの時はダークボロス(ボロスタッチ闇の腹心)だった模様。
2006-09-03
長野杯2006(スタン 5-0 エクテン 1-1-1 SEスタン 3-0) 優勝
念願叶っての長野杯優勝、今考えるとスタンとエクテンの複合フォーマットって恐ろしい形式で長野杯してたんだね。一つの目標を達成、無冠も返上できた。
デッキはスタン、エクテン共にボロスウィニー。
あの時のカバレッジを探したんだけど、残念ながら出てこなかった。
初めてからここまで、大きな公式戦ではほぼ一貫してアグロを使用していたことになる。
この頃長野のMTGは盛んで、ALL KNIGHT MAGICなんかもやってて、まさに個人的なMAGICの春を迎えていた頃。
2006-10-15
2006 Limits Qualifier--Matsumoto(スイス 3-0-2 SE 2-1) 準優勝
非情に懐かしいLimits予選、決勝でオサと当たり後1マナが伸びず、《吸収するウェルク/Draining Whelk》がプレイできず、《ボガーダンのヘルカイト/Bogardan Hellkite》に蹂躙されてしまう。
当時は公式戦で当たるオサに苦手意識を持っていた気がします。
2006-10-28
2006 Nagano Champsもんぜんぷら座 (スイス 4-0-2 SE 3-0) 優勝
2度目の県別優勝です。
デッキはジェスカイコントロール、当時の名称でいうと昇竜拳です。
どうやら憎き《ボガーダンのヘルカイト/Bogardan Hellkite》を使う側に回ったようで、随分と手に馴染んだようです。
2006-12-09
The Finals 2006--Nagano Qualifierもんぜんぷら座(5-0-2) 権利獲得
2006-12-23
The Finals 2006 Championship国立オリンピック記念青少年総合センター(4-4-2)
なんとFinals権利も取得、しかしFinals本戦もなぜかスタン―エクテンの2フォーマット構築戦という地獄。
スタンは珍しくコンボデッキでドラゴンストームを使用、非常に引き強かった時期ですね。
エクテンの記憶がちょっと抜けてるんですが、珍しくコントロール系を握っていたっぽいです。
2007-08-12
2007 Japan Regionals--Shin’etsu燕三条地場産業振興センター(メッセピア)/Messe Pia (6-1) 権利獲得
この頃になるといろんなデッキを使えるようになり、日本選手権予選も抜け、結果も付いてきます。
この時はなんとオリジナルのバントブリンク、コントロールには《造物の学者、ヴェンセール/Venser, Shaper Savant》と《裂け目翼の雲間を泳ぐもの/Riftwing Cloudskate》を、ビートダウンには《ロクソドンの教主/Loxodon Hierarch》を《夜明けの集会/Congregation at Dawn》でサーチし、《一瞬の瞬き/Momentary Blink》でブリンク。締めは《塩水の精霊/Brine Elemental》《ヴェズーヴァの多相の戦士/Vesuvan Shapeshifter》コンボでした。
《月の大魔術師/Magus of the Moon》に弱い点も、サイドの《暴行+殴打/Assault/Battery》で処理とキレキレのデッキ構築でした。
オリジナルデッキの中ではベストと言えますが、その反動か、これ以降オリジナルデッキの採用は殆ど無くなってしまいます。
2007-08-30
2007 Nationals - Japan大田区産業プラザPIO(構築 2-5 ドラフト 1-2)
しかし日本選手権本戦にはバントブリンクは持ち込まなかったようで(デッキ不明)、その結果惨敗してしまいます。うる覚えですが《巨大ヒヨケムシ/Giant Solifuge》などが入ったステロイドだったような・・・。
因みに履歴を見ると、サトレイさん、ライザさん、鍛冶さん、フジケンさん、石田格さんと、恐ろしい当たりをしていました。
当時の自分は中央(関東MTG界の通称)との実力の差を感じ、非常にショックを受けていましたね。特に石田格さんとのマッチは人生のベストバウトの1つです。
2007-11-10
Grand Prix Kitakyuushuu 2007西日本総合展示場/West Japan Exhibition Center(初日7-1-1 二日目 2-3)
しかし出れる大会は全部出るころです、たとえお金がなくても出る。
この大会はお金がないので、でるさんに5万借りて参加し、アマチュア賞金を獲得して返済したまさに背水の陣の大会でした。フォーマットはローウィンシールドです。
そう言えば、アマチュア賞金って何で無くなっちゃったんでしょうね。そこからGPがプロの狩猟場になった感じも否めません。
2008年は長野でサラッと孤立していた時期で、余り大会でも結果は残せていなかったようです。
家に嫁さんが転がり込んできたのもこの頃でしょうか。
リーマンショックが発生しますが無事就職し、東京編へと続きます。
因みに合間合間で2chダードやったり、信大3人で鉄人杯のチーム戦出たりというのもあったのだけど、非公式戦だったため省略されています。
しかし盛り上がるところ少ない割に、長いなこの記事!
MTG1.0を忘れないよう、戦歴を見ながら昔を懐かしんでいきます。
非常に長いし自分語りが多い歴史書みたいなもので、そこまで面白いものでもないので、暇人以外は読まない方がいいかも。
MTGを始めたのは2000年の夏。
受験勉強で頭がおかしくなったのか、ストレス解消のためか、そんな時期にMTGを始めてしまう(感染源は弟)。元々各種TCGをやっていたため、多少ルールの難しいMTGにもすんなり入ることができてしまった。
弟が黒単傭兵を使っていたため、余っていたコモン類で緑青を組むが、話にならないくらい弱いデッキでした。
マイフィニッシャーは《ラッシュウッドの精霊/Rushwood Elemental》!
2色デッキでダメラン無しでクインテットシンボルってヤバすぎるな・・・
当時はウルザ+マスクスブロック+6版の環境でしたが、ウルザブロックが軒並みテンポで売り切れていたため、マスクスブロックのみの紙束ができあがっていました。
そんな中《ラノワールのエルフ/Llanowar Elves》という1マナのタイムワープに惹かれ、《極楽鳥/Birds of Paradise》を必死にヤフオクで揃え、ステロイドに、そしてインベイジョン発売からFiresへと使用デッキは進化していきます。
2001/4/22
JP Regionals 00-01 - Koshin’etsu松本商工会議所 (3-5-1)
初の公式戦、そのころ《ウルザの激怒/Urza’s Rage》と《リシャーダの港/Rishadan Port》を持っていない自分は、メインに4枚の《エラダムリーの呼び声/Eladamri’s Call》を搭載したシルバーバレットFiresへと謎の進化(?)を遂げていました。
バレットは《煽動するものリース/Rith, the Awakener》、《嵐景学院の戦闘魔道士/Stormscape Battlemage》、《雷景学院の戦闘魔道士/Thunderscape Battlemage》、《シヴのワーム/Shivan Wurm》など、余りしっかりした構築ではなかったと思います。
ただウルザのフローレスブラックに憧れていた自分にとって、シルバーバレット戦術は余りにも魅力的でマイデッキとしては上出来だったと思います。
大学に入ってからは複数のサークルにも入り、MTG仲間も増え、大学内の仲間内でMTGをする機会も増えた。この頃は純粋に勝ちたい気持ちが強く、当時長野の権威でもあった長野杯への出場を目標とするようになりました。
このころは赤緑系のビートダウンデッキを好み、オデッセイブロックの頃には完全にビートダウンの人というのが定着しました。
このころは懐かしのサンクタムカップや830杯、鉄人杯、ちゃばこ杯など、ローカル大会はあれば全部参加してました。
2002-04-13
2002 Japan Regionals--Koushin’etsu (Matsumoto) (6-3)
大学2年目からは松本から長野に移動しており、高校生選手権に出る子の世話をしたり、それなりの戦績は残せるようになります。
この日本選手権予選では6戦目でYTSA氏に負けるまでは日本選手権本戦の権利が見えていたりもしました。
使用デッキは《野生の雑種犬/Wild Mongrel》や《獣群の呼び声/Call of the Herd》を擁する赤緑ステロイドです。
当時は4-2より上の成績を残せない事に非常に不満を持っていたけど、今考えるとプレイは非常に稚拙で、勝ちたい気持ちだけが先行していましたね。
しかし長野ではそんな感じでもそこそこ勝ててしまっていて、偶に開かれるGPTやPTQでは、地方遠征する関東勢を如何に迎撃するかが生きがいでした。
当時地方まで来てたのはフジケンさんとか樽さんとかが良く来てた記憶です。
2002-11-16
PTQ Chicago - Tokyo(スイス 5-1-1、SE 0-1) ベスト8
DCIセンターに遠征して出たリミテッドPTQで何とベスト8に抜けてしまう。
が、そこで待っていたのは何とロチェスタードラフト(オンスロート)。
田舎ではそんな文化がある訳もなくベスト8止まりでした。
2003-08-10
Nagano Cup(構築 3-1-2 ドラフト 3-0)
念願だった長野杯に初参加、しかし2分けしてしまい構築時点で目無しに。
この辺でスロープレー常連の烙印を押されてしまう。この頃はゴブリン召集を使ってたんじゃないかな。
理由は単純な練習不足で、練習不足なのに深読みしてしまい時間だけ食ってしまうというもの。プレイの遅さを解消するまで随分時間がかかりました。
でも《ゴブリンの女看守/Goblin Matron》と《頭蓋骨絞め/Skullclamp》の関係で選択肢が死ぬほどあったのも覚えています。
2004-02-28
305 PTSE Kobe - Beef Open Premium Standard(スイス 5-1-1 SE 0-1) ベスト8
伝説の神戸牛争奪戦。PT2日目ののサイドイベントだったため、不幸にもスイス最終戦でGary Wiseと激突してしまう。
なんやかんやあってSEに抜けるも、今度はOsyp Lebedowiczと激突してしまい負け。
デッキは《エルフの戦士/Elvish Warrior》や《腐食ナメクジ/Molder Slug》の入ったアンチ親和ステロイドでした、随分尖ってんなー。
2004-10-24
2004 Nagano ChampsOmocha bako(スイス 5-1 SE 2-0) 優勝
ひょんなところでタイトルが取れてしまいます、その名も県別選手権。
ゲームデーと名を変えましたが、県別選手権とはどうも相性が良いようで、長野で2回、東京で1回、それぞれ優勝しています。
デッキは親和で、環境序盤からこのデッキを使っていればと強く思わされた大会でした。
2005-09-11
Nagano Cup 2005(構築 2-3)
2回目の長野杯も惨敗。
デッキは《炎歩スリス/Slith Firewalker》や《火と氷の剣/Sword of Fire and Ice》の入った赤単スライ。
練習の時だけは分周りするため、kztさんのトロンにメインから《赤の防御円/Circle of Protection: Red》が入ったとかなんとか。
2006-06-04
2006 Japan Regionals--Chuubu(5-1-1)
しれっと日本選手権予選に抜け・・・られずオポ落ちで5位。7回戦終了の日本選手権予選なんてあったんだなぁ。
使用デッキはセレズニアアグロ、旧ラヴニカブロックのころで、《ロクソドンの教主/Loxodon Hierarch》という攻防一体のカードがお気に入りでした。
この頃からちょいちょいO塚さんにデッキ構築したりしていた、記録によればこの時はダークボロス(ボロスタッチ闇の腹心)だった模様。
2006-09-03
長野杯2006(スタン 5-0 エクテン 1-1-1 SEスタン 3-0) 優勝
念願叶っての長野杯優勝、今考えるとスタンとエクテンの複合フォーマットって恐ろしい形式で長野杯してたんだね。一つの目標を達成、無冠も返上できた。
デッキはスタン、エクテン共にボロスウィニー。
あの時のカバレッジを探したんだけど、残念ながら出てこなかった。
初めてからここまで、大きな公式戦ではほぼ一貫してアグロを使用していたことになる。
この頃長野のMTGは盛んで、ALL KNIGHT MAGICなんかもやってて、まさに個人的なMAGICの春を迎えていた頃。
2006-10-15
2006 Limits Qualifier--Matsumoto(スイス 3-0-2 SE 2-1) 準優勝
非情に懐かしいLimits予選、決勝でオサと当たり後1マナが伸びず、《吸収するウェルク/Draining Whelk》がプレイできず、《ボガーダンのヘルカイト/Bogardan Hellkite》に蹂躙されてしまう。
当時は公式戦で当たるオサに苦手意識を持っていた気がします。
2006-10-28
2006 Nagano Champsもんぜんぷら座 (スイス 4-0-2 SE 3-0) 優勝
2度目の県別優勝です。
デッキはジェスカイコントロール、当時の名称でいうと昇竜拳です。
どうやら憎き《ボガーダンのヘルカイト/Bogardan Hellkite》を使う側に回ったようで、随分と手に馴染んだようです。
2006-12-09
The Finals 2006--Nagano Qualifierもんぜんぷら座(5-0-2) 権利獲得
2006-12-23
The Finals 2006 Championship国立オリンピック記念青少年総合センター(4-4-2)
なんとFinals権利も取得、しかしFinals本戦もなぜかスタン―エクテンの2フォーマット構築戦という地獄。
スタンは珍しくコンボデッキでドラゴンストームを使用、非常に引き強かった時期ですね。
エクテンの記憶がちょっと抜けてるんですが、珍しくコントロール系を握っていたっぽいです。
2007-08-12
2007 Japan Regionals--Shin’etsu燕三条地場産業振興センター(メッセピア)/Messe Pia (6-1) 権利獲得
この頃になるといろんなデッキを使えるようになり、日本選手権予選も抜け、結果も付いてきます。
この時はなんとオリジナルのバントブリンク、コントロールには《造物の学者、ヴェンセール/Venser, Shaper Savant》と《裂け目翼の雲間を泳ぐもの/Riftwing Cloudskate》を、ビートダウンには《ロクソドンの教主/Loxodon Hierarch》を《夜明けの集会/Congregation at Dawn》でサーチし、《一瞬の瞬き/Momentary Blink》でブリンク。締めは《塩水の精霊/Brine Elemental》《ヴェズーヴァの多相の戦士/Vesuvan Shapeshifter》コンボでした。
《月の大魔術師/Magus of the Moon》に弱い点も、サイドの《暴行+殴打/Assault/Battery》で処理とキレキレのデッキ構築でした。
オリジナルデッキの中ではベストと言えますが、その反動か、これ以降オリジナルデッキの採用は殆ど無くなってしまいます。
2007-08-30
2007 Nationals - Japan大田区産業プラザPIO(構築 2-5 ドラフト 1-2)
しかし日本選手権本戦にはバントブリンクは持ち込まなかったようで(デッキ不明)、その結果惨敗してしまいます。うる覚えですが《巨大ヒヨケムシ/Giant Solifuge》などが入ったステロイドだったような・・・。
因みに履歴を見ると、サトレイさん、ライザさん、鍛冶さん、フジケンさん、石田格さんと、恐ろしい当たりをしていました。
当時の自分は中央(関東MTG界の通称)との実力の差を感じ、非常にショックを受けていましたね。特に石田格さんとのマッチは人生のベストバウトの1つです。
2007-11-10
Grand Prix Kitakyuushuu 2007西日本総合展示場/West Japan Exhibition Center(初日7-1-1 二日目 2-3)
しかし出れる大会は全部出るころです、たとえお金がなくても出る。
この大会はお金がないので、でるさんに5万借りて参加し、アマチュア賞金を獲得して返済したまさに背水の陣の大会でした。フォーマットはローウィンシールドです。
そう言えば、アマチュア賞金って何で無くなっちゃったんでしょうね。そこからGPがプロの狩猟場になった感じも否めません。
2008年は長野でサラッと孤立していた時期で、余り大会でも結果は残せていなかったようです。
家に嫁さんが転がり込んできたのもこの頃でしょうか。
リーマンショックが発生しますが無事就職し、東京編へと続きます。
因みに合間合間で2chダードやったり、信大3人で鉄人杯のチーム戦出たりというのもあったのだけど、非公式戦だったため省略されています。
しかし盛り上がるところ少ない割に、長いなこの記事!
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